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くらやみまちからの手紙

2026.10.5── 週末の娯楽品 / 未成熟な孤独を

2026.10.05

「田舎のシネコンから」というdiaryを書いたことをきっかけに、
この場合には、さてどうだっただろうかと、思われました。

それは、まさに、近所の(と言っても車の送迎が必要な)イオンシネマで、もしも中高生の頃に、映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』を観ていたら、どうだったろうか──ということです。

あの頃、現実の生そのものに触れてくる映画の存在を、まだ、知らなかった。
あくまでも、それは自分自身の感受性の責任として語りたいところだが、
ただ素朴に、知らなかった。
その映画世界とこの現実世界には、きっちりと境界の引かれた季節を生きていた。
シネコンの大衆映画だけを観続けてきた肉体からして、その未成熟な孤独を、映画館で分け合う方法など、およそ知り得なかったろう。
映画館の暗闇に入る前と出た後で、人生が変わるかもしれないと、そんなふうに考えたことは、一度たりとも、なかった。

胸を割く苦しみを分け合うことは、
今にも触れ合う距離の女の子にも、瞬間交わる男の子にもできないのだから、
「映画」──週末の娯楽品になど、叶えられるはずはなかった。望むらくもなかった。

それでも、本だけを傍らに十代を突き進んだ果て、若い孤独に触れてくるものが、やがて幾つかあって、文化や芸術があって、その一つが、「映画」でもあってくれたのだった。
──胎内の「映画」が、耕されゆく。
わたしはそれをレンタルビデオ屋で見つけ、東京のミニシアターで見つめた。

異世界を想って、甘く溜め息を吐く。
そんな作品が、田舎のシネコンに、もしもあってくれたなら。
もっと早くに、包み込んであげられるのであれば。

この心が溶けてゆく温度を、
生き方が瓦解される爆音を、
絶え間ない現実を超えてくるような興奮を、
いつでも、求めてはいた──そう、信じてあげたい。
求めることも知らなかったほど、愚かだったとは、口が滑っても、言いたくない。口が裂けても、言えない。

どうか、響いて、届いて、指先だけでも触れられたのなら、変わっていたかもしれない。

自分自身へと向けられていると、
たしかに、こちらに手を差し伸べていると、信じられる「映画」が、
あの場所に、願わくば、ふるさとに、光っていてくれたなら──

永い溜め息を、もう一つのそれがあしらう。
そんなふうに、果たされることのない分岐を望む方が、ずっと愚かだろう。
賢明に現実を見据えるべしと。

然して今、この現実に、そういう仕事に就いている。もう一度、若い孤独に、触れる機会をいただいた──この身に余る光栄として。
シネコンは、十代の遊び場だ。

願わくば、あなたの、生へと触れられる映画をつくりたい。
平日、神経を尖らせて、休日も、まだ一人では完結させることのできない、不完全な心身を伴って、それでも、走ってゆかなくては、はち切れる魂が保たないあなたの。
あなただけの孤独を和らげるために、
映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』があると良い。
この世界を、あなたが独り走ってゆくために。

………

凛役の西原紬さんが、打ち上げの帰り際に、大人たちのいる場所を通って、素敵なご挨拶をしてくれました。
(机のお酒は大人のもので、むろん、彼女は関与していません。)
けれどもあと15年経ったら、未来の作品の現場で、乾杯できたらいいね。
映画の見え方が、どんなふうに変わるかな?

2026.10.4── 一回の秋晴れ / あなただけの孤独

2026.10.05

人生に何度とない秋晴れだった。
というよりも、その一回性においては、
人生に二度と起こり得ぬ秋晴れなのだった。

一周回って、どこかで捻れて、こんな気持ちを知りたくなかったとすら思う。
飛び跳ねるような歓びに身を圧されると、
人は突っ伏して泣くのだ。

”今の気持ちを、ずっと忘れたくない。
この気持ちを忘れるのは映画監督を辞める時──”

この文字列は、以前自らが口にしたものであると気づくと、
白い机の記憶が薫って、
映画『溺れるナイフ』が公開規模に比しての最大ヒットとなり、大入袋をもらった時のことだった。
龍の軌道にいる気持ち、
いつも現れるわけじゃないくせに、
眼が合うと、いつだって必ず乗せてくれる。
幻の生き物のはずなのに、この背中の皮膚には実在感がある。

それでも、その果敢の最中にあってなおも、
こんな未来があるなんて、
想像していなかった。

すべての映画はアーカイブされ、いつでも引き返せる利便性と引き換えに、その頃にはもう、かつて希求された暗闇の存在は、忘れ去られてしまうだろう。
未来、ユビキタスに「作品にアクセス」できるのだとしても、絶対的に、この現在にしかすくわれないものがある。

封切り直後の映画館の暗闇にだけある、
光と、音と、物語とを待ち望む、
あの熱く張り詰めた緊張感、
その体験は、このたった今にしかできない。
発展すべく約束された未来に誓ってなお。

大衆映画とは、公共に許された暗闇というフレームに、意志を持ち集う時空において、つまりは極私的な(と同時に、公共的な)劇場体験を経ることによって初めて完成する、
双方向的であることを超えた──全方向的なインスタレーションでもあるのだ。
(話が逸れるが、ここで重要なのは、スクリーンというフレーム/光の外には、それを包摂するフレーム/暗闇が入れ子構造のように存在しているという点だろう。ここに母子像のようなイメージを発見するのはあまりにも容易い──そこに神聖と陥穽が共にある。)
情報ではなく体験であるという一点に、保証される、壊れやすく儚い、だからこそ人間と同じに尊い一回の芸術である。

映画館に行きたい。
書を捨てて、街に出て、映画館に!
満席の劇場内で、映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』が観たい!
この秋晴れを終えたら、生涯、手に入らないものかもしれないから。

光を浴びたい。
あなたの隣にずっといたい。

どうか、今満ち満ちてゆく映画館で、あなただけの孤独を見つけてほしい。
それこそが、この映画を、いちばん贅沢に感受していただける最善の方法であることを、映画の神様に、言い換えればあなたに誓って約束します。
そのためにこそ、あなたの街の映画館を、こじ開けたのです。

この世に、大衆映画以上の芸術などないことを、21世紀を生きた一人として、この魂を以って証明したい。

2026年10月1日21時頃
公開前夜舞台挨拶を終えた
ユナイテッド・シネマ豊洲にて
撮影:小野啓

まちの映画監督

山戸結希 / YAMATO YUKI

山戸結希 / YAMATO YUKI

2012年、上智大学哲学科在学中に独学で監督した映画『あの娘が海辺で踊ってる』でデビュー。

2014年、映画『おとぎ話みたい』にて、日本映画プロフェッショナル大賞新人賞を受賞。

2016年、映画『溺れるナイフ』が60万人以上を動員し、20代女性の監督作品において前例のない興行記録となる。

2018年、初の企画・プロデュースを務めた映画『21世紀の女の子』──“ジェンダーあるいはセクシャリティがゆらいだ瞬間”をテーマとしたオムニバスが、東京国際映画祭にて特別上映。
翌年、監督を務めた『ホットギミック ガールミーツボーイ』と共に称賛され、TAMA映画賞最優秀新進監督賞を受賞。

2021年、初のテレビドラマ『生きるとか死ぬとか父親とか』のシリーズ構成と監督を務める。CX『セブンルール』にて、「新世代の映画監督 若手俳優が出演熱望する青春映画の名手」として特集される。2024年、NHKゴールデンタイムのドラマ『燕は戻ってこない』の演出を担当する。

これまでMrs. GREEN APPLE、RADWIMPS、backnumber、乃木坂46らMusic Video映像監督を務め、ジャンルを超えたみずみずしい映像表現に定評がある。

2026年10月2日、映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』が、全国ロードショーとなる。